Ибодат
3-イバーダ(崇拝行為)
● イバーダ(崇拝行為)の意味:イバーダ(崇拝行為)に真に値するのはアッラーのみです。「イバーダ(崇拝行為)」という言葉は、次に示す2つのことに関して用いられます:
①崇拝すること:つまり、偉大かつ荘厳なアッラーの比類さへの讃美とかれへの愛ゆえに、かれのご命令の遂行とかれの禁じられたことの回避をもって、かれに服従し謙虚に仕えること。
②それをもって崇拝するところのもの:つまりドゥアー(祈願)、ズィクル(アッラーの念唱)、サラー(礼拝)、アッラーへの愛など、アッラーが愛でられご満悦されるところの全ての外面的・内面的な言葉や行いを指します。例えばサラー(礼拝)はイバーダ(崇拝行為)であり、それを行うことはアッラーを崇拝することです。私たちはアッラーに服従し、かれを愛し、かれの偉大さを讃えつつ、かれのみを崇拝します。そして定められた手法によってでしか、かれを崇拝しません。
● 人間とジン[1]の創造に関する英知:
アッラーは人間とジンをいたずらに、無意味に創造されたのではありません」。アッラーは彼らがただ飲み食いし、享楽を得、愉快に笑うために創られたわけではないのです。人間とジンは偉大かつ荘厳な彼らの主の命じられたことの遂行と禁じられたことの回避、かれの規定されたことの遵守とかれ以外のものの崇拝を放棄することによって、かれを崇拝し、タウヒード信仰し、彼の比類さと偉大さを讃え、かれに服従するという偉大な目的ゆえに創られたのです。崇高なるアッラーはこう仰られました:-そしてわれ(アッラーのこと)はジンと人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。,(クルアーン51:56)
● ウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)の手法:
偉大かつ荘厳なアッラーに対するイバーダ(崇拝行為)は、2つの偉大な基盤の元に成り立っています。それは:
① 偉大かつ荘厳なアッラーへの完全な愛
② かれに対する余すことのない服従と謙虚の念
です。
そしてこれら2つの基盤は、更に偉大な2つの基盤の基に成立しています。それは:
① それがアッラーへの愛へと導くところの、彼の恩恵と恩寵、慈善とご慈悲の認識
② 偉大かつ荘厳なアッラーへの完全な服従と謙虚さへと導くところの、自らとその行いの至らなさと欠陥の自覚
です。
そしてアッラーのしもべがその主へと向かう最短の道は、主が自分自身にとって決して欠くことのできない存在であることを、常に肝に銘じていることでしょう。つまり彼は自らを単なる一人の破産者と見なし、自分自身に関わる状態や地位や財産、自身が恩恵を被っているところの手段(仕事や能力など)などが自分自身のお陰であるなどとは考えないような者なのです。彼は偉大かつ荘厳な彼の主への絶対的な必要性と、もし主から見放されたら彼には喪失と破滅が待ち受けていることを心得ています。至高のアッラーはこう仰られました:-あなた方の元にあるあらゆる恩恵は、アッラーからのものである。そしてあなた方に災難が降りかかると、あなた方はかれ(アッラーのこと)だけに哀願するのだ。しかしいざアッラーがあなた方から災難を去らせると、あなた方の一部の者たちは何かを彼らの主に並べて崇め出す。そのような者たちは、われら(アッラーのこと)が彼らに授けたものにおいて忘恩するままにしておくがいい。(そして彼らにこう言うのだ)“(現世における恩恵を)楽しんでいるがいい。(来世におけるあなた方の末路を)いずれ知るだろうから。” ,(クルアーン16:53‐55)
● イバーダ(崇拝行為)において完璧な人たち:
イバーダ(崇拝行為)において完璧な人々とは、諸預言者と諸使徒です。なぜなら彼らこそは、アッラーについての知識と彼の比類のなさを讃えることにおいて、他の誰よりも通暁しているからです。更にアッラーは彼らに、彼らを人々へ遣わされたことによる恩恵を授けられ、それで彼らはアッラーからのメッセージを託されたことによる卓越性と特別なウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)という卓越性を両方備えているのです。彼らの後に続くのが、アッラーとその使徒への信仰を全うし、またその教えによって自らを真っすぐに正したアッ=スィッディークーン(よく信じる者たち)です。そしてその後にはアッラーの道における殉教者、そしてアッ=サーリフーン(一般的に前述の者たち以外の正しい信仰者たち)が続きます。崇高なるアッラーはこう仰られます:- そしてアッラーと預言者に服従する者は、(来世において)預言者たち、アッ=スィッディークーン、アッラーの道における殉教者、アッ=サーリフーンら、アッラーの恩寵に恵まれた者たちと共になろう。彼らには素晴らしい連れ添いがあるのだ。,(クルアーン4:69)
● しもべに対するアッラーの権利:
天地の全てのものに対するアッラーの権利は、彼らがアッラーのみを崇拝し、かれに何ものをも並べたりしないことです。そしてアッラーに服従し逆らうことなく、かれを想起して忘れることなく、またかれに感謝して忘恩の徒とならないことです。ある種の人々は不能さや無知、あるいは怠慢や義務の不履行などからこのアッラーの権利をないがしろにしていますが、それゆえにもしアッラーが天地の全てのものを罰されたとしても、それでアッラーが彼らを不正に罰したことにはなりません。またもしアッラーがそれらにご慈悲を示されたとしたら、そのご慈悲は彼らの行為よりも遥かによいものなのです。
ムアーズ・ブン・ジャバル(彼にアッラーのご満悦あれ)はこう伝えています:「私は預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)とともにウファイル(灰色という意味)という名の1頭のロバに同乗していました。彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“ムアーズよ、アッラーのしもべに対する権利と、アッラーに対するしもべの権利を知っているか?”私は言いました:“アッラーとその使徒がよくご存知です。”彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“アッラーのしもべに対する権利は、彼らがアッラーを崇拝し、かれに何ものも並べたりしないことだ。そして偉大かつ荘厳なアッラーに対するしもべの権利とは、かれに何も並べて拝したりさえしなければ、罰されたりしないことだ。”私は言いました:“アッラーの使徒よ、人々にこの吉報を伝えましょうか?”彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“伝えないでおくのだ。彼らが(この事に)頼り切って(イバーダ(崇拝行為)や善行に努力しなくなって)しまわないように。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[2])
● ウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)の極致:
1-全てのしもべは3つの状態の間を変遷しています。それは:
① 途絶えることのないアッラーの恩恵-そしてそこにおいてしもべは、アッラーを讃えかれに感謝しなければなりません-
② 犯した罪-そしてそこにおいて、彼はその罪の御赦しをアッラーに請わなければなりません-
③ アッラーが彼を試練にかけるところの災難-そしてそこにおいて彼は耐え忍ばなければなりません
これら3つの状態における義務を果たす者は、現世と来世において幸福を勝ち得るでしょう。
2-偉大かつ荘厳なアッラーがそのしもべたちを試練にかけられるのは、彼らの忍耐とウブーディーヤ(アッラーの真の僕であること)を試されるためであり、彼らを滅ぼされたり罰されたりするためではありません。アッラーのそのしもべに対し、順境にあるときと同様に、逆境のときにも彼にウブーディーヤ(アッラーの真の僕であること)を求められているのです。またしもべは彼が好むことに関してアッラーの真のしもべであるように、彼の厭うことに関してもそうでなければなりません。自分たちの好むことに関してアッラーの真のしもべであることはは大概の人が出来ることですが、問題は自分たちの厭うことにおいてアッラーに従順であれるかどうかなのです。人々のこの点におけるスタンスは様々です。酷暑において冷水でウドゥー[3]することもアッラーへの従順さであれば、自分の美しい妻と交わることもアッラーへの従順さです。また酷寒において冷水でウドゥーすることもアッラーへの従順さであれば、一人きりのときに自らの欲望がアッラーの定めを破ろうとするのを抑制するのも、またアッラーへの従順さなのです。飢えや害悪に耐えるのもまたアッラーへの従順さの表れですが、問題は2つの相対する状態におけるアッラーへの従順さを分離させてしまうことなのです。それゆえ順境にあっても逆境にあっても、また厭うことにおいても好むところにおいてもアッラーへの従順さを貫き通す者こそは、恐れることもなければ悲しむこともない真のアッラーのしもべなのです。このような者はアッラーのご加護のもとにあるのであり、いかなる敵も彼を降伏させることは出来ません。ただ時にシャイターン(悪魔)が彼を騙すことはあるでしょう。しもべは彼の不注意さや私欲、怒りなどによる試練に遭うでしょう。そしてシャイターン(悪魔)がしもべの胸の内に忍び込むのは、実にこの3つの扉からなのです。アッラーは全てのしもべに対し、彼自身の魂と欲望、またシャイターン(悪魔)でもって試練にかけられますが、それはしもべが果たしてそれらのものに屈服するか、あるいは彼の主に従うかをご覧になられたいからなのです。
偉大かつ荘厳なアッラーは人間にご命令を課され、魂にもまたご命令を課されました。アッラーは人間から信仰心とよき行いを完遂する努力をお望みになりますが、魂は財産と欲望の満足を望みます。またアッラーは私たちが来世のための行いに精進することをお望みになりますが、魂は現世のための行いに懸命になることを望みます。そして信仰心こそは救いの道であり、それ以外では真実を見据えることの出来ないともし火なのです。これが試練の場なのです。
1-至高のアッラーは仰られました:-人々は“私たちは信仰しました”とさえ言えば、試練にもかけられずに放っておかれるとでも思ったのか?実にわれら(アッラーのこと)は彼ら以前の者たちを試練にかけたのだ。そしてアッラーは(“私たちは信仰した”という言葉において)正直な者たちと嘘つきとをご存知になられたのだ。,(クルアーン29:2‐3)
2-至高のアッラーは仰られました:-そして私は自らを正当化しません。魂というものは、私の主がご慈悲をかけられたものを除いては、悪へと傾きがちであるからです。実に私の主はよく赦され、慈悲あまねきお方です。 ,(クルアーン12:53)
3-至高のアッラーは仰られました:- そしてもし彼らがあなた(が呼びかけるところのもの)に応じないのなら、彼らは彼らの欲望に従っているに過ぎない、ということを知るのだ。そしてアッラーからのお導きもなしに自らの欲望に従う者ほど、迷い去っている者があろうか?実にアッラーは罪悪を行う民をお導きにはなられないのだ。,(クルアーン28:50)
[1] 訳者注:精霊的存在のこと。
[2] サヒーフ・アル=ブハーリー(2856)、サヒーフ・ムスリム(30)。文章はムスリムのもの。
[3] イスラームにおける、いわゆる小浄。汚れを除去する意図を持って、体の定められた各部位を水で洗浄する行為。